医療情報男の日記

病院で医療情報システムの保守運用の仕事をしています。

白井聡著「武器としての資本論」読了

ドイツの思想家カール・マルクスの「資本論」という、有名な著作があります。

 

 

しかし、作者の白井氏も本文中で、”大概の人は、第1章の最後までも行かないで、はや挫折してしまう運命にあります”と述べているように、決して万人向けではなく、内容は難解です。

 

資本論は、テレビやネットで見聞きしたことがある程度。しかし、この記事を読んでみて、この本が資本論を分かりやすく解説してくれて、なおかつ現代日本人労働者向けだと思い、購入しました。(資本論の日本訳版は、まだ今でもハードルが高い・・・)

 

労働者階級で、しかも医療人材派遣業にあり、自身も商品として売り出されている身です。常に常駐先から値踏みされている立場のなかで、ときどき息苦しさを感じていました。それは、この資本主義社会では、労働者はみな「商品」であり、生産性が全てという思想もあったからです。しかし、この書籍では、その思想に真っ向から「NO」と唱えます。「生産性や効率性、いくら稼いだかによって人間としての価値が決まる」という発想こそ、資本家階級(搾取する側)が労働者階級に仕向けた施策の結果であり、搾取される側を束縛している呪いだと言うのです。

news.yahoo.co.jp

 

消えゆく労働者階級の文化

 

資本家階級と労働者階級とで構成された資本主義社会。今の日本では、労働者階級で育まれた独特の文化が失われつつある、とのこと。

たとえば「デコトラ」と呼ばれる、大変な手間と費用をかけて飾り立てたトラックがあります。あれは一通りでない情熱と財力を傾けた、きわめて誇り高い労働者階級の文化でしょう。ギラギラのメッキパーツを取り付け、ネオンサインのごとき灯火類を光らせ、荷台にはエアブラシで描かれた巨大な花魁・般若・龍など絵柄が舞う。車内で聞く音楽はもちろん、八代亜紀でなければならない。傍目からどれだけ悪趣味だと見られようが、そんなことは意に介さない独自の価値観と様式性を持っている。

かつ、このような様式化は労働の尊厳とも関わっています。

しかし、デコトラも昔に比べると減っているそうです。各社の物流センターが、デコトラを入場禁止にしてきた。理由としては違法改造の問題などもあるのですが、すべてのデコトラが違法改造車であるわけではない。見分けるなんて面倒くさいから一律禁止にしてしまえと。労働者階級の自律的文化を尊重すべきだなどという発想は、微塵もありません。

 

最近は企業間のお中元のやりとりも、少なくなってきたと聞きます。効率性・生産性を追求していくと、これも時代の流れということでしょうか。

文中で「車内で聞く音楽はもちろん、八代亜紀でなければならない。」を強調文字とするあたり、ユーモアがあります。

 

 

新自由主義とは

 

白井氏は、新自由主義ネオリベラリズム)」を、次のように定義しています。

新自由主義ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を見つけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。

そして、こうも述べています。

人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。だから、人間を資本に奉仕する道具としか見ていない。

資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そうか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。

人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。

 

特定の職業で存在していた、独自の文化が失われていく一方で、労働者階級全体では、ある種の文化が開花しました。それが新自由主義ネオリベラリズム)の文化でした。「労働力=人間の価値」という思想が、しだいに浸透していき、もはや文化と言えるレベルで根付いていたのです。

 

 

労働力の価値と、人間の価値とを切り離す

 

最後の章で、白井氏は、この新自由主義ネオリベラリズム)の文化を問題視し、人間の本質的な価値はネオリベラリズムで語るものではない、と力説していました。

 

人間という存在にそもそもどのくらいの価値を認めているのか。そこが労働力の価値の最初のラインなのです。そのとき、「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。

資本の包摂の攻勢に対して何も反撃しなければ、人間の基礎価値はどんどん下がってしまう。ネオリベラリズムが世界を席巻した過去数十年で進行したのは、まさにそれでした。人間の基礎的価値を切り下げ、資本に奉仕する能力によって人の価値を決めていく。

それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。「私たちはもっと贅沢を享受していいのだ」と確信することです。贅沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのです。

 

これまでの価値観で言うと、「お金を生むもの」を「お金を生まないもの」より優先させていました。また、世の中の多くのものを「商品」で見てきたように思います。

しかしそれは、人間の価値を、「稼ぎの良し悪し」で測っていた、新自由主義ネオリベラリズム)の思想に染まっていたことになります。本書によって気付かされたのは、そこでした。

しかし、物事を「商品」として見てしまう考え方は、これからも変わらない気がします。「昔は商品ではなかったものが、今では商品とされている事例は数多くあり、資本主義社会が続く限り、その商品化の流れは止められない」と本書で述べられているように、「こんなものまで売り物になるのか」と最初は驚くのですが、次第にそれを受け入れて、当たり前に買うようになってきた経験があります。ミネラルウォーターなどがそれですね。

ただし、教育や医療などの対人サービス業を、単なる商品として見てしまうのは危険なように思います。対価を支払った側が優位に立ち、サービス提供理不尽な要求をしたり、無茶なクレームを言ったり、人間性まで攻撃するような、いわゆるモンスターペアレントモンスターペイシェントが目立つようになったからです。彼らは、相手をまず「人間」ではなく「商品」として扱っているのではないでしょうか。だから「人としてそれ言ったらアカン」のラインを平気で超えてきます。

逆に、社会主義国家だった旧ソ連では、窓口にいくら行列が並んでいたとしても、定時になったら有無を言わさずシャッターを下ろすと聞いたことがあります。

 

資本主義社会で、人々の生活水準は上がりましたが、行き過ぎたネオリベラリズムの思想にとらわれてしまっては、今度は人間性の豊かさが失われるように思います。マルクス資本論の本質は難しくてまだ理解できていませんが、本書で白井氏が主張するメッセージは、しっかり腑に落ちてきました。

 

 

 

武器としての「資本論」

武器としての「資本論」